2013年11月30日土曜日

日本は"自由”のない戦前に!辺見庸が予知した日本の現在

作家の辺見庸のブログ記事があまりに人気を呼んでいるので、その続編を今日はお送りしたい。

その背景には、安倍現政権が、無理に制定に向けて論議進めている「秘密保護法」があることは想像に難くない。

今回は、辺見に対して、昨年5月に行われたロングインタビューを基に、「秘密保護法」に関連しそうな箇所を私見で抜粋したものをご紹介する。





辺見庸ロング・インタビュー「国策を問う――沖縄と東北の40年」
(沖縄タイムス 2012年5月10日、同11日)

<復帰40年・安保の実相 作家の辺見庸さんが迫る>
(インタビュアー・渡辺豪)

【本文見出し】
【前編】 「沖縄 いまなお『石』扱い」(2012年4月10日掲載)
Ⅰ.311――米軍支援の真意
Ⅱ.「トモダチ作戦」を美談化
Ⅲ.「国難」盾に押しつけ
Ⅳ.ファシズム醸す気運
Ⅴ.増幅する破局の予感
Ⅵ.激変に無自覚な社会

【後編】 「徹底的破滅から光」(2012年4月11日掲載)
Ⅰ.露出した差別の構造
Ⅱ痛みますます希薄に
Ⅲ.基地全廃いまこそ追求
Ⅳ. 虚妄に覆われた時代
Ⅴ.「肝苦りさ」闘いの原点





(4)ファシズム醸す気運




-辺見さんは著書で「なにかはかりがたいものは、上から高圧的に布かれているのでなく、むしろ下から醸されているようです」と指摘していますね。




辺見 ファシズムっていうのは必ずしも強権的に「上から」だけくるものではなくて、動態としてはマスメディアに煽られて下からもわき上かってくる。

政治権力とメディア、人心が相乗して、居丈高になっていく。個人、弱者、少数者、異議申し立て者を押しのけて、「国家」や「ニッポン」という幻想がとめどなく膨張してゆく。

〈尖閣をめぐり中国漁船の領海侵犯があった。中国側に反省はない。

東シナ海ガス田問題もある。北方領土もロシア側のやりたい放題だ。

3・11があった。政府は弱腰で、無為無策だ。北朝鮮のミサイル問題、核問題もある。日本は国際社会からなめられている〉――という集団的被害者意識のなかで、例えば、集団的自衛権の問題についてもう誰も論じない。

憲法9条なんてもうほとんど存在しないかのような流れになっている。


逆に、「なめられてたまるか」という勇ましい声が勢いづいてきている。

ミリタントな、なにやら好戦的な主張が、震災復興のスローガンとともに世の耳目をひき共感を集めたりしています。

尖閣を東京都が買う、という石原慎太郎知事の発言もそうでした。「政府にほえづらかかせてやる」という石原発言にマスコミは喜んでとびつきましたが、尖閣を買って、その先をどうするのか、じつは大した展望がない。

もともと衆議にはかっていない、いわば際物(きわもの)的構想であり、一昔前なら一笑に付されたものがいまは石垣市長が賛同したり、大阪維新の会府議団も支持表明したりと冗談ではすまない空気になっている。

勇ましい発言をすればするほど大衆受けする時代がすでに来た気がします。






ミリタントな気分を誰がたきつけているかというと、政治家だけでなく、戦前、戦中もそうだったけれど、マスメディアですよね。

マスメディアがさかんに笛を吹き、人びとが踊りを踊っている。テレビは視聴率がとれればいい、新聞も負けじと派手な見出しを立てて読ませていこうとする。もう一歩進んで冷静に考えてみるというのではない。それが事態をますます悪くしている。




大震災や原発事故のようなことが起きると、人間の情動は不安定になる。

そんなときにもてはやされるのが石原氏や大阪市長の橋下徹氏のような論調。好戦的な論調に溜飲を下げる者が増え、支持を得やすいわけです。

だからこそ新聞はそれにチェックを入れなきゃならないはずなんだけれども、その役割を果たしているとは思えない。

やっぱり何度も言うけれども、ルース大使が被災地に行ったことや「トモダチ作戦」の多面性についてちょっと距離を置いた、分析的な報道をしたっていうのはほとんどない。沖縄2紙が写真を使わなかったりしたのが冷淡だとネットで叩かれたりしている。それが気持ち悪いんだよね、はっきり言って。


しかし河北新報(東北地方のブロック紙)なんかは、沖縄の問題と東北の問題には同質性があるという独自の報道をしていますね。僕は「同質性」には大いに疑問があるけどね。だから必ずしも全部が全部じゃないんだけれども、でも全国紙はどこもほとんど同じように「トモダチ作戦」絶賛、絶賛だからね。これは異様ですよ。


これは関係がないようで関係あると思っているんだけれども、複数の在京メディア関係者から実際に聞いた話で、福島第1原発の事故のときに当初からメルトダウンが起きたことは分かっていたと。

でもメルトダウンという衝撃的な用語を使わせない空気が社内にあった。で、メルトダウンという言葉の使用をみんなで避けたと。それがしばらく続いた。

そのことともね、どこかで関係がある。自己規制と自己矛盾ですね。「トモダチ作戦」なんて、何年も記者生活をやっていたら、あれを米側がただのフレンドシップだけでやるわけがないことぐらい、そんなことは常識でしょう。

何らかの戦略的な目論みがあるはずだと取材し、分析し、報道するのが、ジャーナリズムの仕事の基本なんだけれども、それをしなかった。あれだけの窮状に遭って助けてもらっているのに、それにけちつけることはできないというセンチメントが優先されていった。

背景には、憲法9条と日米安保という本質的に矛盾する言語を、2つながら、無責任に肯定している、受けいれているという「スキゾ」というか分裂症的無意識がある。そのしわよせを沖縄が負わされつづけている。40周年に際して、本土の戦後民主主義はこの人格分裂について徹底的に自己分析すべきです。その結果、憲法9条と日米安保が、意外にも「二卵性双生児」だったということになっても、この際、議論を深めるべきです。


にしても、言うべきことを言わず、なすべきことをしていない。


期待された行為を行わないことによって成立する犯罪を「不作為犯」と言いますが、マスメディアもそうではないでしょうか。


それが全体として新しいファシズムにつながっていく。


今、この国には間違いなく、もう後戻りできないぐらいの勢いでおかしな気流がわいてきています


僕が驚いているのは、沖縄の市民に対する反発っていうのかな、反感みたいなものがほの見えること。彼らは東北の震災についてあまり考えずに自分たちのことだけ言っているといった、そういう発想が最近増えてきているような気がします。これはとんでもない間違いです。同時に、沖縄にも米軍基地反対が言いにくいといった自己規制の空気が生じていないかわたしは心配です。





(6)激変に無自覚な社会


-福島第1原発の事故検証も不十分な中、誰一人、責任をとろうとしないまま、政府は原発再稼働を画策しています。マスメディアの役割が機能していないともいえるのでしょうか。


辺見 資本とテクノロジーと人間の欲望とか弱さという近代の本質が、集中的に出ているのが原発の問題だと思います。

近代は長くそれを隠してきたのですが、3・11の衝撃でみんなむき出されてしまった。しかし、むきだされた近代の断面をまだわれわれはしっかり正視していない。立ち止まって整理できていないって思うわけです。福島というものが単に精神、情念といったものだけで語られるんじゃなく、どういうふうに深くとらえ直して見るのかが問われている。


僕は近代全体を通して大きな枠から見てみたいと考えています。原発の問題というのは消費資本主義ときってもきれない。だから今、秘やかに政府側が考えているのはエネルギーの供給態勢の中で原発は必要だっていう考え方ですよ。だから段階を踏みながら再稼働を考えている。僕はそれについて世論もゆっくりした速度だけれども、当初の再稼働反対から、分からない、ないしはやむを得ないみたいな議論がどんどん増えていって、それをマスメディアが後押ししているように感じています。実際、夏場に停電騒ぎにでもなると、ますますそうなっていくだろうなって僕は見ています。


近代の崩壊から新しい時代に移る過渡期にある今は、この先何が起きるか見えないと思っているんです。

だって現実に今、首都直下型地震が起きてもおかしくないわけだから。昨年の3月11日を起点にした情勢だけで、これからをはかることはできない。もっと3連続地震みたいなものを前提にしなければならないとしたら、原発とかの問題にとどまらない。一体、日本という国は人間が住むのに適しているのかどうかっていうところまで考え直さないといかんと。議論はそこまでいってもいいんじゃないかと思うんですね。女性の皇位継承問題が国家の大事なんてことを「本土」の新聞が書いてますが、それどころではないのです。


-マスメディアが抱える問題として「記憶の空洞化」があると思います。辺見さんは著書で「この国が長崎、広島というものを年中行事化したことで痛苦な記憶を空洞化してきた」とも指摘されています。8・6(広島平和記念日)や8・9(長崎原爆の日)を年中行事化したのと同様、沖縄の5・15(復帰記念日)や6・23(慰霊の日)そして3・11も主にメディアによって記号化されることで、「痛み」が空洞化していく懸念もあります。


辺見 忘却が一番恐いですね。


やっぱり執拗に物事を覚えておかなければいけない。それが必要だと思うんだけれども、どんどん忘れ去られていく。事実関係もゆがめられていく。それで「トモダチ作戦」なんかでみんな涙流して喜んでしまう。本当は毎日毎日がドラスティックに変化しているんだけれど、それが自覚できない。それが一番危険なことなんじゃないかな。


メディアの責任は大きいと思います。ただ、メディアの責任といった場合、どうしても僕らは人格的に考えがちだけど、集合的な意識であって、誰も責任をとろうとしない。結局、僕は個体に帰すると思うんです、「個」に。つまり、わたしはどう考えるか。どう振る舞うべきか。自分はどう思うのか、どうするのかと。


ワイマール憲法下のドイツがナチスの台頭を許し、世界最先端と言われた民主主義が世界で最悪の独裁者を育ててしまった経緯には現在でも学ぶべき点があります。





-沖縄密約事件を、辺見さんはどのように見てこられましたか。


辺見 密約情報を得た西山太吉さんは権力と権力の意を体した「言論テロリズム」に撃たれたのです。

あれ以降、ジャーナリズムは萎縮してしまい国家機密にかかわるスクープが政府の思惑どおりに激減した。

新聞は西山さんを守りきれなかった、というより守らなかった。

メディアっていうのは所詮そんなものだと言えば言える。でもその中でも、やっぱり西山さん的な「例外」というのが結局、歴史の暗部、真相を見せてくれたわけだから、権力の隠蔽工作に立ち向かう試みを棄ててはいけない。

国家権力とジャーナリズムは絶対に永遠に折り合えないものです。折り合ってはならない。


国家機密はスッパ抜くか隠されるか、スクープするか隠蔽されるか、です。記者の生命線はそこにある。いまは権力とメディアが握手するばかりじゃないですか。記者は徒党を組むな、例外をやれ、と僕は思う。ケチョンケチョンにやられるまで例外をやって、10年後、20年後にああ、あれはこんなに大きな意味があったのかと。というふうな取材をしたら、その段階ではくそみそに言われるよ。

会社からも余計なことするなって言われる。誰もかばいはしない。ますますそういう時代になってきている。でも今ぐらい特ダネが転がっている時代はないと思うよ。権力がいい気になって調子にのっており、わきが甘くなっているからね。


20代で初めて沖縄に行って教えてもらった最も印象深い言葉は「肝苦(ちむぐ)りさ」でした。いまでもあるでしょう? これ、本土にはない。言葉より前にその感覚が薄い。「断腸の思い」ではただの挨拶みたいで嘘臭い。

ギリシャ語には「スプランクニゾマイ(splanknizomai)」という言葉があるらしいですね。不思議ですね。「スプランクナ」(はらわた)を動詞にしたもので、「人の苦難を見たときに、こちらのはらわたも痛む、かき乱れる」という身体感覚です。


「肝苦りさ」――闘いの原点はここにしかない。


約3時間にわたるインタビューの結びとして、辺見さんに「沖縄の記者たちにひと言」とお願いし、こんな言葉をいただいた。


「常に例外的存在になれ、それが一番の贅沢なんじゃないか、記者という職能の一番の贅沢は、お前は一人しかいないってことだと思う。

それに記者は独りだよ、徹底的に。みんなとつるんで、上とも横ともみんなと仲良くやろうとしても無理。

考え方も独りで徹底すること。集団に隠れたらもう終わりだよ。集団に隠れないこと」。

私の本棚には、辺見さんの著作がたくさん並ぶ。その中で最も古い1冊を持参し、サインを請うた。


手元には「独考独航」の文字が残った。

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-これは私たちジャーナリストに対してだけ送られた言葉ではない。本当の民主主義に気づき始めたすべての市民に対する言葉だと思う。

3・11以降、何度も思うことがある。日本人は与えられた民主主義を、本物の自分のものにするための闘いが、始まったばかりだ、

全体主義、国家主義でしかなかった、戦前の日本に、本当に取り組む時期が今、始まった。

血で血を洗う闘いの後、勝ち取った欧州と異なり、戦後のアメリカから与えられた日本の民主主義は、やはり偽物だった。

しかし、ようやく、本物の民主主義を自分のものにするときがきたのだ。時代の逆風はその試練を試すためにあると私は思う。

ゆえに苦難が前にはだかる現在こそ、こぶしを高く突き上げることが必要になる。


諦めてはいけない。後退には、国家主義者たちのあざけ笑いしか残されていないのだから。




2 件のコメント:

  1. この風潮を加速させたのは安倍、石原、この人たちはろくなことをしていない。東京五輪も返上すべきだ。

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  2. 安倍のような人間、思考がいつのまにか普通に。。。(差別心、暴言、弾圧もろもろ)。

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